祈りのデザイン

最近、親の葬儀を仕切る機会があり、寺院や仏壇、その先の仏教・死生観などと向き合うことがあった。 実家の仏壇をゴソゴソ掃除したり、檀家としてお寺のご住職とお話しすることが多くなった。メインの法事なども自宅に人々やクルマを集めるのが大変なので、近くの法事サポートセンターなる施設にお願いしたのだが、併設されている売り場内の新しい仏壇や仏具を眺めているうち、最近の仏壇仏具の変貌ぶりに驚かされた。グッドデザイン賞を受けるほどの洗練されたシンプルな仏壇(と呼ぶにはもはや別物の・・)や位牌たち。ナチュラルな木材をメインに製作された精神性を重視した遺族に寄り添うカタチの数々・・・。実家にある仏壇はいわゆる古式にのっとった威厳を感じる荘厳なつくりの昔ながらのものであり、おもわずホトケさまのありがたいご威光にコウベを垂れる心境になるものだが、最近のいわゆる「デザインされた」ナチュラル仏壇たちは、受け取る者の心境がモノをいうというか、故人や御先祖を思うココロが伴わないと、単なる木製の飾りになってしまう危険性をはらんでいる気がする。つまり昔風の仏壇にある、紫檀や黒檀などの唐木で作られたり、精巧な彫刻を施されたり、金箔を貼ったりなどして、いやが上でも「迫力」「ありがたみ」「なんだかわからないけどすごいですね」などといった、日光陽明門ばりの圧力によって我々シモジモの者たちを納得させる、ある種の「効果」「演出」は、新しいナチュラル仏壇にはないのである。 そういったデコラティヴかつ「お飾り過剰」「ギンギン」な、過去数百年続いてきたかつての宗教デザインとはあきらかに違う概念を伴う、新しい信仰心を感じざるを得ない。こういった傾向は、シンプルな建築による教会のデザインにも見ることができ、著名な安藤忠雄氏の「光の教会」や「水の教会」などは同じ考え方を感じさせる。 ここで気づくのは、デザインというのは「過剰」になってもある種の迫力を感じさせるし、「質素」になっても、そのものの持つ潔さや清廉潔白さの中に宿る「清浄」なゆえの「凄み」「こわさ」を感じるのである。 この無駄なものをギリギリまで削ぎ落とす、または削ぎ落としたがる日本人独特の美意識の傾向は、日本刀や茶の湯、絵画、俳句などにも共通する、日本人独特の美意識の表れなのではないだろうか? 大阪制作 藤原

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