信長の広告魂。

お疲れ様です。大阪制作の小幡です。

『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』と言いますが日本の歴史において政治的な観点から広告(民衆に知らせる方法)を

重要視したのは織田信長ではないでしょうか。情報が最優先だった感覚からも現代人に通じる感覚を持っていたのでしょうかね。

 

それまでの統治者は、身近な人たちだけ分かっていれば下々の者には理解されなくてもいい!…というか、

何も考えんと従え!という感じでしたが信長は民衆にもわかる方法で大々的に告知をしました(全てではないんですが…)。

というか、パフォーマンスが上手かったということでしょうか。

 

例えば、自軍の規律を厳しくして、他国や占領地、戦さ場での乱暴狼藉はご法度。破ったものは見つけ次第信長自らその場で斬り殺したりもしたそうです。

これは民衆に織田軍が攻めて来ても、民衆には手出しをしないよと言うことをアピールしていました。

楽市楽座も同じですよね。織田領に行けば他国に比べればびっくりするくらい税金が安いぜ!織田領にお越しやす!と近隣民衆にアピールしています。

また、将軍足利義昭の邸宅、二条城を作る際民衆も見物OKで信長自ら指揮をするので、あ~あれが殿様か~と衆目のまとになったといいます。

それまでは殿様の顔なんて見れるものではなかったとか。

安土城築城の際も石垣用のどでかい石を祭りさながらに移動させたり、陣頭指揮をとり今までにない殿様をアピールします。

後は、天皇に観覧してもらうための軍事パレードをして、周辺大名から民衆まで自分の力を誇示します。

そして極め付けが、知る人ぞ知る安土城ライトアップではないでしょうか。

安土城は安土山を基礎とし、その小高い山の上に五層七階(+地下一階)建ての天守閣を作り、その天守閣を包むかのように城郭を巡らせ

下層へ行くに従い家臣たちの屋敷が軒を連ねる、まさに山城を極めた作りになっています。

山城の周りは琵琶湖へと続く池や湿地帯となっており天然の水堀を要していたといいます。

天守閣は言わずと知れた絢爛豪華な作りで、湖面に映る安土城も格別だったと思われます。

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《安土城跡の石段》

 

まあ、これだけでも十分に天下人のアピール満載なのですが、それでも飽き足らず、信長は安土城築城1年目の盂蘭盆会(七夕祭り)を企画します。

かなり自信満々だったんだと思いますが、安土城におとづれた宣教師たちにも

「明日空いてる?明日の晩なんだけれどさ、すっごい面白いことするから見に来てよ。」

と伝え、次の日の番に招待します。

そのことが宣教師ルイスフロイスの「日本史」に書かれているので引用します。

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信長は、いかなる家臣も家の前で火を焚くことを禁じ、彼だけが、色とりどりの豪華な美しい提燈で上の天守閣を飾らせた。

七階層を取り巻く縁側のこととて、それは高く聳え立ち、無数の提燈の群は、まるで上(空)で燃えているように見え、

鮮やかな景観を呈していた。彼は街路に、手に手に松明を持った大群衆を集め、彼らを長い通りの両側に整然と配列させた。

多くの位の高い若侍や兵士たちが街路を走って行った。松明は葦でできているので、燃え上がると火が尽きて多くの火花を散らした。

これを手に持つ者は、わざと火花を地上に撒き散らした。街路はこれらのこぼれ火でいっぱいとなり、その上を若侍たちが走っていた…

 +++++++++++++++++++++++++++++++++ルイスフロイス「日本史」より++++++++++++

 

ライトアップを見慣れた現代人でも、見てみたい!!と思うようなずば抜けたパフォーマンスセンスを覗かせていますよね!

電気でなく火で演出していますから、なんとも奥ゆかしいく豪華な雰囲気を想像させます。

 

 

信長が本能寺で死ななければ、服装、建築、広告など政治経済以外の分野も今の常識とは違う物になっていたかもしれませんね。

 

安土城ライトアップのイメージを掲載したかったのですが、著作権とかありそうですので、

以下、安土城跡の付近にある「信長の館」という施設で紹介されているサイトをリンクしております。

動画があるのですがすごくわかりやすくて綺麗ですよ!館内には本丸の7・8階部分の実寸の復元模型もありますので、ぜひ行って見てください。

信長の館(ページの下の方に動画があります)http://www.zc.ztv.ne.jp/bungei/nobu/vr/index.html

 

※自分の記憶に頼っていますので、勘違い・間違いがあるかもしれません。あしからず。

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